西山厚志さん|サイエンスでファンタジーなチーズの世界に魅了されて
茨城県の県南地域、圏央道の稲敷東ICから車で5分ほど、のどかな田園風景を流れる新利根川沿いにある「新利根チーズ工房」(稲敷市)は、チーズ職人の西山厚志さんが2017年に開いた工房です。
もともと千葉県の畜産試験場で働く研究員だった西山さんは、仕事として畜産に関わる中で、ヨーロッパで古代から続く文化のチーズに魅了されて一念発起し、チーズ職人を目指すようになったといいます。
「チーズは、牛や羊、ヤギの“乳”と”塩”という2つの素材しか使わないのに、世界に1000以上の種類があるといわれています。そこにすごくファンタジーを感じる一方で、実はチーズ作りはとことんサイエンス。そういうハイブリッド感にとても惹かれてしまったんです」
工房に併設された直売所には、週末の金曜から日曜(+祝日)のみの営業ながら、県内外からわざわざ西山さんのチーズを買い求めにくるお客様の車が店の前に並びます。
「今年になってようやく本当に出したかったチーズを並べられるようになりました」という西山さんに話を聞きました。
商品名には地域の地名から1文字を使う
チーズ職人の西山さんの一日はまだうす暗い早朝から始まります。その日の作業の内容にもよりますが、起きるのは朝4時半から5時。自宅から車で15分ほどの工房に着いて仕事を始めるのは5時半から6時だといいます。
それから一気呵成にチーズを作り始めて一息つくのは13時過ぎ。それからチーズの反転作業をしながら、同じ稲敷市にある寿司店で都内からもわざわざ食べにくるファンも多い「鮨小野」や直売所「いなのすけ市場」、隣村の美浦村の直売所、千葉県の道の駅「発酵の里こうざき」(神崎町)といった卸先への配達や、商品の一部発送、事務作業などを行います。
ようやく1日の仕事が終わって工房を出るのは19時過ぎ。驚くことに西山さんは、この仕事をたった一人で行っています。
「人を雇って工房を大きくしていくこともできるのですが、それをどうもしたくなくて(笑)。今はチーズ工房の経営の研究をしているという意識です。最小限の生産量で、どこまで経営として成り立つかというのを自分を実験台にして明るみにしたい。一人のチーズ工房でもちゃんと経費や生活費を払い、借金もしっかり支払って、年間100万円の貯金ができるようなラインを越えられるんだということを実証したいんです」と西山さんは、独特の視点で工房の存在意義を話します。
たった一人のチーズ工房ではチーズの生産量を最大化するためにチーズ作りと接客、事務処理を時間のロスなく組み上げていく必要があります。たとえば、チーズ作り1つとってもそれぞれの作業にかかる時間が異なります。
現在、新利根チーズ工房の商品は10種類あります。
「今日のようにお店を開いているときは(取材日は金曜)、『新利根ブラン』や『白霞』『勝馬蹄』といった、製造工程中にインターバルが挟まるチーズを作るんです。今朝は『白霞』『勝馬蹄』を作っていて、10時から寸胴鍋でミルクを加熱殺菌してから冷やし、乳酸菌を入れて発酵させるところまでやって、開店準備に取り掛かりました。このあと16時にレンネット(凝乳酵素)を入れるのですが、それまではお客様をご案内できるんです」
つまり営業する3日間には、セミハードやハード系のチーズは製造できないので、残りの4日間でこれらのチーズ作りをします。4週間のうち16日で5種類のチーズの製造を割り振っていくと、例えば24㎝サイズの「稲敷ラクレット 稲光」は月に2玉。小型サイズの「月利根」は月に18玉の製造数が限界だそうで、他のチーズも同様に1カ月あたりの製造量はかなり限られています。当然、人気がある商品は売り切れになることもあります。
(稲敷ラクレット 稲光)
(月利根)
(常陸晴)
「今、10種類のチーズを作っていますけど、数を減らせば一つひとつの製造量を上げることはできます。ですが、商品の名前を見ていただくとお気づきかと思うのですが、工房近くのランドマークになる地名から1文字をとった商品名にしているのが商品数を減らさない理由のひとつで、チーズをたくさんの人に食べてもらえたら、地域のことも知ってもらえると思うからです。私なりの地域貢献でもあるので、商品は多くしていたいと思っているんです」
さらに西山さんは、前職の千葉県畜産試験場時代に酪農家の経営についても研究しており、チーズ工房に消費者が求めるものの一つに「品ぞろえの良さ」があり、3〜4種類に特化した商品構成ではお客様の満足が得られにくいことを知っていた、ということもあります。
「実は値付けの難しさもあって、チーズは『スーパーマーケットでのチーズの値段』に引っ張られる傾向があるんです。スーパーで300円台で買えるモッツァレラが、うちだと(新利根モッツァは)590円です。この590円は経営的にはギリギリの値付けで、本当はもっと値上げしたいのですが、消費者心理を考えるとこれ以上は上げられないというのもあります」
「日本の漬物のように、チーズも毎日食卓に上るようになってほしい」と願いながらも、小規模工房では日常使いで利用できる価格に下げられないというジレンマに苦労しているというのが、西山さんの本音です。
「解決の道筋になるかわかりませんが、まずはチーズをおもしろいと思ってもらう、反応してもらうということが大切なのかなと思っています。地名から1字もらった商品名もそうで、あらゆる方法を使ってお客様に興味を持ってもらう。私自身は、地域に特化して商品を作っていけたらと思っています」
毎日バケツで生乳を汲みに行く
新利根チーズ工房の目前に広がるのは、茨城県唯一の放牧酪農場「新利根協同農学塾農場」です。西山さんは、新利根協同農学塾農場なしで、自分のチーズを話すことはできないというほど大切な存在だといいます。
千葉県畜産試験場職員時代に知人の紹介で、新利根協同農学塾農場で行われたイベントに参加し、経営者の上野裕さん(下の写真2枚目)に出会います。
当時西山さんは、千葉県内に小さな牧場を立ち上げ、そこで絞った生乳でチーズを製造する計画をしていましたが、候補地を絞り切れずにいました。そのことを、上野さんに話すと、「酪農家としてキチンと牛を飼えるようになるのに10年前後はかかる。それからチーズ工房を立ち上げて軌道にのせようとしたら、さらに数年かかるでしょう。職人として完成するのは20年後になる。最盛期は数年しかないわけだから、敷地と生乳の提供できるので、ここで開業するのも一つの選択かもしれないよ」と、助言を受けたといいます。
西山さんは、数カ月間考えた末、千葉県職員を退職、北海道新得町にある日本チーズの老舗「共働学舎新得農場」で1年半研修した後、上野さんの言葉を頼って新利根チーズ工房を開くことになるのです。
「酪農家の仕事は過酷です。さらにチーズ製造をしかも一人でするのは、中途半端に仕事を増やすだけで生活を貧しくしてしまうことになります。それならこの牧場を中心に、それぞれの専門性を活かした職人たち集めて、周辺地域とともに活性化させ、ゆくゆくはオーベルジュ(ヨーロッパの宿泊付きレストラン)のように育て、過疎化する地域と周辺を活気づけたい。新利根チーズ工房のように、レストランや菓子工房、カフェ、宿泊施設などの開業を目指す人の目的地になればと思いました」と上野さんは、西山さんのチーズ工房建設をサポートしたといいます。
熟成チーズはとくに生乳の質が製品に反映してくると西山さんは考えていたこともあり、飼育にこだわった単一の酪農家からの生乳を使ってチーズを作りたいという願望もあったといいます。
「上野さんの放牧牛の生乳は、とくに熟成チーズこそ本領を発揮すると思っています。白酵母と醸造酵母によるさわやかでミルキーな『白霞』や、去年できあがったウォッシュタイプの『月利根』や『稲敷ラクレット 稲光』、稲光の失敗作からヒントを得て生まれたハードタイプの『暁富士』など商品数を徐々に増やしていけるようになりました。しっかりといいものを作って、それが噂になって、上野さんの牧場に来てもらって僕のチーズを買ってもらう。わざわざ来ていただけるようなチーズを作りたいです」
毎日生乳が20ℓ入るバケツを持って隣の牛舎に生乳を汲みにいくという西山さん。たとえば稲光や暁富士、常陸晴は1度の製造で67ℓの生乳が必要なのでバケツ4杯分(20ℓでも実質は入るのは17ℓほど)。それを西山さんは台車などを使わず、手で持って静かに工房に運び込みます。
生乳には、脂肪球というタンパク質やリン脂質を脂肪膜で包んだ球体の成分が含まれています。この脂肪球が崩れると脂肪分解酵素が出て苦味が出てしまうそうです。そのため、できるだけ生乳にダメージを与えないようにしているのです。
「搾った生乳をクーラータンクに集める段階でダメージがかかっているので、そこで気を遣っても意味がないという話もありますけどね(笑)。そうだとしても、それ以上にダメージを与えないようにしたいんです。あとは衛生的な理由もあります。生乳が蓋についても毎回洗っていますけども、溝などに洗い残しがでる可能性もあります。その洗い残しのタンパク質の汚れに大腸菌が入ったりしてはいけないので、衛生管理上も丁寧に扱う必要があるのです」
確かに新利根チーズ工房の工房内を見渡すと、整理整頓が行き届いていて衛生管理が徹底されています。実際、工房は茨城県独自のHACCP(グローバルな衛生管理基準)認証制度「いばらきハサップ」を取得しています。
チーズを日本酒に漬け込んだ「黄昏富士」
「新利根協同農学塾農場さんと新利根チーズ工房のストーリーが込められたチーズがあるんです」と、西山さんは、今年5月に発売を開始した新商品「黄昏富士」の話をしてくれました。
ハードタイプのチーズ「暁富士」の改良版で、小型で熟成期間を7カ月と短くし、その後、茨城県の地酒に1カ月間漬け込み「洋と和の発酵」を融合させてた意欲的なオリジナルチーズです。
「店頭のお客様だけにお話しをしているのですが、この地酒というのが山中酒造さんの『一人娘』なんです」
茨城県常総市にある山中酒造は、江戸時代末期1805年の創業、210年の歴史をもつ老舗の酒蔵です。実はこの山中酒造の酒粕が、新利根協同農学塾農場の放牧牛たちの飼料の一部に加えられているのです。
「山中酒造の酒粕を食べた牛のミルクで作ったハードチーズを、山中酒造の酒に漬けて仕上げるというストーリーだけでなく、西洋の発酵食品であるチーズを、日本の発酵酒である日本酒で漬け込んだもので、私としては今一番おすすめしたい商品です。日本酒のうま味と風味が独特で、とてもおいしいと思っています。茨城県内のコラボレーションというのも多くのお客様におもしろがっていただけるのではないでしょうか」
「だけど……」と心配そうな表情を浮かべる西山さん。西山さん自身は、山中酒造にお酒を買いに行って実際に飲んだこともあるそうですが、それは一人客として行っただけ。2020年以降急激に忙しくなった西山さんは山中酒造に挨拶に行く時間が取れないほど工房にこもりきりで、山中酒造に「お酒を使わせてください」というお願いができていないことを気に病んでいるのです。それゆえに、工房で黄昏富士を販売する際にこっそり口頭で宣伝するレベルに留めているとのこと。
「なんとか時間を捻出してご挨拶にうかがいたい」という西山さん。こんな素晴らしいチーズができているのですから、「シェフと茨城」でも何かお力になれたらと思っています。
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次回の更新は、6/9(水)。河内町の廃校を再利用して、チョウザメやトラフグの循環型養殖に挑戦している「トキタ」の時田武さんに話をうかがいます。どうぞお楽しみに!
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Edit & Text by Ichiro Erokumae
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