常陸秋そばが育った土地の風土、育てた人の人柄をイメージしたほうがおいしい蕎麦が打てる
東京・巣鴨。JR巣鴨駅と東京さくらトラム(都電荒川線)庚申塚駅を結ぶ巣鴨地蔵通り商店街の北側にある「手打そば 菊谷」(以下、「菊谷」)は、「ミシュランガイド東京」の2016年版以来ビブグルマンとして掲載を続けている蕎麦の名店です。
店主の菊谷修さんは、28歳で勤めていた建設会社を脱サラし、もともと趣味で学んでいた蕎麦打ちを生涯の仕事にしようと転職。埼玉県秩父市にある名店「手打そば こいけ」(現在は閉店)で修業した後、29歳で独立し「手打そば 菊谷」を開きました。
2003年の独立当初は、東京・練馬区の石神井公園駅近くに店を構えていましたが、2011年に菊谷さんの地元・巣鴨に移転。実家を立て替えてオープンしました。
「菊谷」の名物は、産地の異なる蕎麦を食べ比べる「唎き蕎麦」。日本各地から取り寄せたソバの実を自家製粉し、粉の状態やその日の気候を見ながらつなぎの分量を調整して打った蕎麦を2種類、または3種類を食べ比べることができます。
この「唎き蕎麦」になくてはならないのが、茨城県が育成したソバ品種「常陸秋そば」だと、菊谷さんはいいます。
常陸秋そばは、蕎麦の基準になるもの
2種類の唎き蕎麦を頼むと、蕎麦つゆと薬味が先に運ばれてきます。ほどなくするとやってきたのがひと皿目の蕎麦。その日によって内容は変わりますが、この日は山形県産のソバの実を使った蕎麦で、食べると強いうま味を感じます。
ちょうど食べ終わった頃、ふた皿目の蕎麦が運ばれてきます。ふた皿めは、茨城県常陸太田市赤土町の2年間熟成させたという常陸秋そばを使った二八蕎麦です。山形県産のソバの実を使った蕎麦よりも見た目は長い、食べるとうま味とともに香りの良さを感じます。
「茨城県のほか、栃木県や千葉県のソバの実を使っていますが、一番使用頻度が高いのが茨城県産の常陸秋そばだと思います」と菊谷さん。蕎麦好きの間では、福井県の福井在来や富山県の八尾在来など、その土地で長らく栽培・選抜されて土着化した在来品種が人気ですが、常陸秋そばは、茨城県農業試験場が選抜・育成したソバ品種です。
「常陸秋そばは、おいしさはもちろん、育てやすさなどにも配慮されたブランド品種で、最近では茨城県以外でも栽培されるようになりました。使ってみて感じるのは、バランスのよい品種ということ。優等生感がありますね。今、いろいろなソバの実を使っていますが、どれかひとつしか使えないといわれたら、迷わず常陸秋そばを選びます」
ほかにも、たとえば栃木県益子市産の秩父在来のソバの実を使う場合でも、濃い味をマイルドにするために常陸秋そばをブレンドすることもあると菊谷さんはいいます。
「常陸秋そばは、蕎麦の基準になるもの。食味や香り、生産性などの項目で五角形のダイアグラムを作ったら正五角形に限りなく近い形になるような、平均的に優れていて、悪いところがないんです。お米でいえばコシヒカリ、日本酒なら山田錦というように、蕎麦といえば常陸秋そばといえる日本を代表する良いソバなのです」
初めて打った蕎麦が常陸秋そばだった
菊谷さんにとって常陸秋そばは、「菊谷」にとって不可欠な食材であるとともに、蕎麦職人としての思い出も詰まったものでもあります。
「24歳か25歳の頃、親戚の蕎麦打ちが好きなおじさんに『蕎麦打ちを教えてほしいので、行ってもいい?』といって蕎麦打ちを初めて教えてもらいました。そのときに初めて触れたのが常陸秋そばだったんです」
常陸秋そばは、茨城県が開発したソバの品種です。初めての蕎麦打ちは難しかったそうですが、かえってその奥深さに惹かれ、菊谷さんはみるみるうちに蕎麦打ちにハマっていきました。名店と呼ばれる蕎麦屋を巡り、蕎麦つゆの材料を求めて、専門店を訪ね歩きながら、独学で蕎麦打ちを学んでいきます。
サラリーマンを辞めたあとに修業した秩父市の「手打そば こいけ」では、北海道から福井、店の地元・秩父など、その時々、いろいろな産地のソバの実を扱うなかに常陸秋そばもありました。そこで、バランスの良さを認識することになります。
「菊谷」をオープンしてからも常陸秋そばは、主力の品種の一つとして使い続けていると菊谷さんはいいます。
「御料たばこ」の産地で育ったソバの実
茨城県と蕎麦の関係は、江戸時代にさかのぼります。
ソバ粉をこねて薄く伸ばし、細く切ったそば切り(蕎麦)は、天正年間(1573~1592)に、大陸から渡来した仏僧によって伝えられたといいます。寛永年間(1624~1644)末ごろには、江戸(東京)の路面で蕎麦が売られるようになったそうです。
水戸藩の二代藩主・徳川光圀(水戸黄門、1628~1701年)の時代に信州(現在の長野県)からソバの種が取り寄せられ藩の奨励品になったとされています。光圀が書き残した日記にも蕎麦を食べたという記述もあります。当時の最新トレンドともいえる蕎麦をいち早く食していた光圀の流行に敏感な姿勢に驚かされます。
江戸時代に盛んになった水戸藩のソバ栽培は、同じく水戸藩の特産品であったタバコ栽培と関係しています。
水戸藩内にタバコが伝わったのは、1608年(慶長13)から1620年代後半と伝えられています。常陸国久慈郡赤土村(現在の茨城県常陸太田市赤土)で、金田次兵衛が始めたといわれています。タバコ栽培は光圀の時代には藩を代表する名産品になっていました。「 |水府《すいふ》煙草」として江戸でも知られ、明治時代以降は、「御料たばこ」として皇室に献上されるほどでした。
タバコを同じ畑で栽培すると連作障害がでてしまいますが、ソバを後作すると障害を防ぐことができるだけでなく、タバコの残肥を吸収する役目も担うという相性のよい食材だったことも、ソバ栽培が盛んになった要因のひとつです。
茨城県北部の常陸太田市山間部に位置し旧金砂郷町の農山村名(大字)だった赤土地区は、地名のどおり赤い土壌が特徴です。小石混じりで水はけもよく、気候も昼夜の気温差が大きくタバコやソバを栽培するのに適した場所でもありました。
昭和になると赤土地区でのタバコの栽培は減少しますが、ソバ栽培は変わらず名産品として知られ、とくに地区で栽培されるソバは金砂郷在来として、蕎麦好きの間でよく知られるソバ品種になりました。
この金砂郷在来を選抜し、品種の特徴を残しながらも全国的にも栽培しやすく育成した品種が「常陸秋そば」です。
茨城県の蕎麦の名店との出会い
歴史ある常陸秋そばと、菊谷さんの繋がりをさらに強めるきっかけになったのは、今から9、10年前。茨城県内だけでなく県外からも客を呼ぶ常陸太田市にある蕎麦の名店「慈久庵」の小川宣夫さんと出会ったことでした。
「小川さんから、『これからの蕎麦職人は畑ぐらい自分でやらないとダメだよ』といわれたんです。まずは小川さんの勧めで秩父市のソバ畑を手伝うようになり、それから3、4年たってから常陸太田市の金砂郷の畑を手伝わせてもらうようになりました」
その時紹介されたのが常陸秋そば振興部会で、伝統的な金砂郷在来をルーツにもつ常陸秋そばを盛り上げようとする地元の人たちの心意気に菊谷さんは心を打たれたといいます。
御料たばこを栽培していた往時の面影もなく荒れ果ててしまった畑を開墾して耕し、ソバ畑にしていきました。ひとしきり作業した夜には、地元の人たちと酒を酌み交わし、金砂郷の昔話を聞いたといい、それは、菊谷さんにとって特別な時間だったそうです。
常陸秋そば振興部会からも要請があり、育てたソバの実を売っていくために菊谷さんに力を借り、試食会やPR活動などを県内外で行っていきました。
「小川さんが『これからの蕎麦職人は畑ぐらい自分でやらないとダメだよ』とおっしゃっていた意味を自分なりに考えてみたときに、畑を知ることで農家さんの目線と近い目線で話ができるようになることなのかと思います。高齢化・事業継承の問題意識だったり、課題も見えてきます。何より、ソバが育った土地の風土や、育てた人の人がらをイメージしたほうが、蕎麦をおいしく打つことができます。気持ちがさらに入っていくのは、いいことだと思っています」
菊谷さんの祖母は北茨城市の出身。さらに菊谷家は、下妻藩(現在の茨城県下妻市)の江戸詰めで、後に神田で洋服屋を始めました。
「茨城県は親しみがある県です。常陸秋そばのほかにも、かすみがうら市の西崎ファームさんの『かすみ鴨』を使わせてもらったり、古河市・青木酒造のお酒『御慶事』などもおいています。唎き蕎麦以外にも、蕎麦前を茨城県食材で楽しんでいただけたらうれしいですね」
蕎麦はウンチクをいいながら食べるものではなく、食べた瞬間の気持ちを大切に、楽しみながら食べるものという菊谷さんは、ソバが実る畑を思い浮かべながら、今日も蕎麦を打ち続けています。
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Supported by 茨城食彩提案会開催事業
Direction by Megumi Fujita
Text by Ichiro Erokumae
Photos by Ichiro Erokumae