川島 拓さん|農家はカッコいい。田村きのこ園で農家として自立したい
直径10㎝、厚さ3㎝もの大きくて肉厚なシイタケは、形だけでなくジューシーで風味もよく、焼くだけでメインの料理になる。笠間市福原の山里にある田村きのこ園の「福王しいたけ」は、まさに王様にふさわしい風格と味で、都内や茨城県内のレストランで料理されたり、大切な人への贈りものとして珍重されています。
この大きなシイタケを育てるのは、シイタケ栽培歴60年の大ベテランで、茸匠の田村仁久郎さんです。
昭和天皇に献上したことや農林水産大臣賞を受賞した経験もある、文字通りキノコの匠である田村さんのもとに、26歳(当時)の若者がやってきて”弟子入り”を志願します。茨城県小美玉市出身の川島拓さんです。
「笠間市地域おこし協力隊」として田村きのこ園に入り現在2シーズン目に入った川島さんは、田村さんの教えを受けながらキノコ栽培を学んでいます。
大きくておいしいキノコをどう作るか
椎茸栽培の1年は、年が明けるとともに始める菌床づくりからスタートします。
菌床とは、ナラやクヌギのおがくずに米ぬか、ふすま(小麦の外皮)などを混ぜて圧縮した20㎝四方ほどのブロックで、ここに椎茸の菌を植え付けて、半年ほどかけて育成させていきます。
菌床づくりでは、雑菌が大敵。雑菌が入ると菌床の椎茸菌がきちんと育たなくなるため、密閉・除菌された無菌室の中で配合をしていきます。
「菌床は、目が細かい方が早く椎茸が育つのですが、出てくる椎茸の大きさは小さいんです。一方で、粗いと発生がおだやかでじんわり育っていくため時間はかかるのですが、身は大きくなる。ですので、田村きのこ園では、目の粗い菌床を作っています。ほかにも、菌床のおがくずや栄養の配合によって椎茸の育ち方は変わってきます。最近は、菌床づくりを自分たちでせずに、よそから買って使っている椎茸農家さんもいらっしゃるそうですが、田村きのこ園では、菌床づくりを自分たちで行うのが特徴ですね」
菌床づくりは1月から3月頃まで続きます。その後は、袋のなかで雑菌が入らないようにしながら半年間、菌床の中に椎茸菌をまわしていきます。最初はこげ茶だった菌床が、真っ白になると菌がまわった証し。ここからさらに茶色い苔のようなものに覆われるまで寝かし続けます。茶色い外側の色は、椎茸菌自身が作ったもので、雑菌から自分たちを守る役目があります。
春から夏、秋へと季節が変わって9月半ばになると、いよいよ椎茸が発現する時期を迎えます。椎茸が出てくるのは、最低気温が18℃を下回るようにあってからだといいます。
「今年は、9月に一度気温が下がって収穫期を迎えましたが、10月にまた気温が上がったことがあって、今(取材したのは10月中頃)ちょっと落ち着いていますね。また気温が下がってきたら、椎茸が出てきますよ」
これからさらに気温が下がってくれば、ハウス内を温かくして風通しを良くしながら菌が発育しやすい環境を整えていきます。
1つの菌床からは、菌床の重さの1/3程の椎茸が採れるといいます。3棟のハウスを合わせて1万個の菌床から椎茸を収穫していき、最後は来年の3月頃まで収穫が続きます。
「年が明けてから3月までは、菌床づくりと収穫が重なるので、とても忙しい時期になるんです」
2019年末に田村きのこ園に来てから、3度目の菌床づくりをもうすぐ迎えようとしています。
山と里の境目で椎茸を栽培する
田村きのこ園がある笠間市福原地域は、筑波連山を背後に控える地で、花崗岩特有の地質もあって清涼な水が豊富な里には、秋になると雑木林の山を通る風が吹き抜け、一面に実った稲穂をやさしく揺らしていきます。
山と里が交わる場所――。田村きのこ園がある場所は、そんな里から上がった山裾に位置しています。
「もともと親方(田村さん)の家は、農家として稲作をしていた他、背後の山の材木を切り出しては、燃料用の薪として切って売っていました。それこそ戦後の主要なエネルギーとして拡大造林政策もあったほど高く売れ大事な収入だったそうです。木材需要の高まりに合わせて雑木林をヒノキや杉に植え替える過程で出てくる広葉樹で椎茸の栽培を始めたそうです」
現在82歳の”親方”田村さんは、鋭い先見性をもって18歳から椎茸栽培を開始。65歳までは、山で伐採してきたナラやクヌギの木に菌を植え付けて栽培する原木栽培をしていたそうですが、体力的な問題もあって管理がしやすい菌床栽培に切り替えました。原木から菌床に栽培方法を変えながら現在までの64年間、椎茸栽培を続けています。
「椎茸栽培にはきれいな水がたくさん必要なんです。栄養が詰まった菌床を水に浸けて、椎茸を育てるんですが、椎茸はその水や栄養をダイレクトに吸うので、菌床自体の質と同じくらい、水の良し悪しは重要ですね。水に不純物などが入っていたらそれを吸ってしまうので、きれいな水である必要があるのです。そういう意味では、ここの場所は水がきれいなので、椎茸の菌床栽培に適していると思います」
実際、福原地区の隣りにある稲田地区には、創業明治元年(1868)の酒蔵、磯蔵酒造があります。酒造りには豊富に水が使われるだけでなく、「名水あるところに銘酒あり」といわれることからも、この地域の水質の良さが伝わってきます。
そもそも福原から稲田にかけて、筑波連山の北側の地域は古くから良質な花崗岩の産地で、特に稲田で採れる石は東京の日本橋にも使われるなどしており、「稲田御影」という名前で広く知られてもいます。この花崗岩の地質が水瓶のような役目をして、山でろ過された水を集めているのです。
「親方の他にも、昔は福原で椎茸を栽培していた家もあり、椎茸組合もあったそうです。原木栽培が多かったそうですが、2011年の東日本大震災の影響で、このあたりの放射線量が高かった時期があるんです。それで地元の木が使えなくなったこともあって、栽培をやめてしまった方も多くいます。今は、田村きのこ園だけになってしまいました」
地域おこし協力隊として笠間に
筑波大学の実質的な農学部である生命環境学群で、農業経済学の研究をしながら、フィールドワークとして農業全般と酒造りなどを学んできた川島さんは、在学中のアルバイト先として農家に入ったことで農業と出会い「農家になりたい」と考えていたといいます。
「もともとは生き物が好きで、自然の中で仕事をしたいと思って大学に入りました。自然の中で仕事をして、育てたものを食べて、畑に来た人に育てたものを振る舞う。それがすごくおいしいものだったりするわけです。そういう農家の生き方ってかっこいいな、と思ったんです」
大学卒業後は金融機関に就職し、北海道の農業者への融資審査や営業を担当したのも在学中の農家のアルバイトで知った農業の根本的な問題である経済的な自立について、実際に金融機関にいることで農業経営から答えを探ろうとしたからだといいます。
「その後は、茨城県でゼロから農業を始めたいと思い帰郷するわけですが、新規就農に対する補助金が変わったことがあって、就農はいったん諦めることにしたんです。このあとどうしようかな、と考えていたときに笠間市が募集している『笠間市地域おこし協力隊』を見て応募しました」
「地域おこし協力隊」とは、総務省が平成21年度(2009)から取り組んでいる制度。1年から3年の期間、都市部から地方へ移住し、地域力の維持・強化を目的とした支援活動を行うものです。笠間市では平成25年度(2013)からスタートしています。
2019年4月に笠間の地域おこし協力隊員に就任して、市内の農家を中心にまわっていく中で、田村きのこ園に偶然訪れることになります。
「その時に食べたジャンボ椎茸が、ステーキみたいにおいしかったんです。隊員として東京のマルシェでの食材販売もやっていまして、笠間の食材として田村きのこ園のジャンボ椎茸をもっていくと、たくさんの人が気に入ってくれたんです。すごくうれしかった一方で、親方が『跡を継ぐ人がいないからなぁ』といって、椎茸栽培を辞めるつもりでいたのを思い出し、『こんなにおいしい椎茸がなくなってしまっていいのか』と考えたんです。それなら、自分が親方の跡を継ぐ、事業を継承できる存在になりたいと考えるようになったのです」
そして、2019年末に田村さんのもとを訪ね、「菌床づくりから手伝わせてください」と弟子入りを志願し、椎茸栽培を学んでいったのです。
自分たちが作ったものに自分たちで値段をつける
現在は、地域おこし協力隊の隊員として田村きのこ園に派遣されています。隊員としての任期は3年。2022年3月には任期を終えることになります。その後は、田村きのこ園に入って、業務継承を目指していきます。
「孫みたいな年齢の川島くんが来て、『田村きのこ園』を継ぎたいと聞いて、本当にやる気があるのか?と聞いたんだよ」と、親方の田村さんは振り返ります。しかし、田村きのこ園を引き継ぎたいという強い思いと、何より真剣に椎茸栽培に取り組む姿をみて、任せようと思うようになったといいます。
「いきなり僕がすべてやるわけではなく、親方とこれからも一緒にやっていきます」と川島さんはいいます。一方で、親方の田村さんは、「もう全部やってもらっているからね。もうお客様がいらしたときに出ていくだけだよ」と笑いながら、川島さんに信頼を寄せています。
「農家経営はね、自分たちで値段を決めることができないことが問題だよ。自分たちで作っているんだから、自分で値段を決めるべきなんだよ。それを脱皮出来たらやっていけるよ。自信があるおいしいものを育てて売れば、口伝いにひろがっていくよ」と田村さんは、川島さんにアドバイスを送ります。
実際、田村さんの農業経営を見ても、おいしいものを作って、自分たちで値付けをして直販して、それが口コミで広げてきているため強い説得力があります。
「うちのはヨソより高いよ。でもみんなと同じ値段では、経営も難しくなるし、自分たちもやる気がなくなっちゃうからね」とも田村さんはいいます。
「農家の生き方に憧れたと同時に、現代の農業の大きな課題である持続性の高い経営にも挑戦したいとも思っていて。『どっちが』というわけではなく、やるからには両立させたいと思っています」と川島さんは、目標を語ります。
実際に、田村きのこ園に来てから、ホームページを整備して、通販ECサイトも立ち上げました。自分たちで値段を決めていくという、田村親方の教えを、現代の方法で継承しようとしています。
「親方の頃から、東京・飯田橋のメトロポリタンエドモンドの総料理長の岩崎均さんに、福王しいたけをずっと使っていただいています。岩崎総料理長は、豪華寝台列車『TRAIN SUITE 四季島』の初代総料理長だった方で、笠間を通る際に、福王しいたけを使ったのがきっかけで、気に入ってホテルでも使い続けくださっています。岩崎シェフのように食材にこだわっている料理人の方に、もっと使っていただけたらいいなと思っています」(川島さん)
現在は、北は北海道、南は福岡県まで、全国7つの飲食店に椎茸を卸しているといいます。
「田村きのこ園のすぐ近くのラーメン屋さん『中華そばのあい川』さんでは、田村きのこ園の干し椎茸を出汁に使ってくださっています。茨城県庁近くのフレンチレストラン『COLK(コルク)』にも使っていただいて、シェフの加藤大恭さんもわざわざ来園されて、お話をさせてもらいました。プロの料理人に喜んでいただけるような、いい椎茸を作り続けたいですね」と、レストランへの卸先も少しずつ増やしていきたいといいます。
「今は、椎茸栽培に専念していくのが大事だと思っていますが、一方で将来的には、僕一人ではなく従業員を雇って組織化していきたいとも思っています」という川島さん。そのためには事業規模の確保が必要で、椎茸栽培では閑散期になる春から夏にかけて栽培できる農作物、たとえばアスパラガスのような作物を育てられるようにすることも視野に入れているといいます。
「僕自身は、農業で儲けたいという気持ちはなくて、農家の生き方に強く憧れて就農しようとしています。自然の中でおいしいものを作って、それを食べてもらったり、福原まで買いに来てもらえるのがうれしいんです」という川島さんは、農園にある納屋の物干し屋根をテラスにしようと計画をしているそうです。
「ここからは、福原の山と田園風景が一望できるんです。ここでお客様に椎茸を焼いて振る舞えたらいいなぁと思っています。シェフの皆さんにも、ぜひ来ていただいて、福王しいたけが育った場所で、味をみていただきたいですね」
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